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古きを訪ねて 地元史

大洗山全景(現在の大洗海岸ホテル街)

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写真中央の、丘のような山林を大洗山(おおあらいさん)という。山頂には大洗磯前神社が鎮座しており、「大洗さま」と呼ばれ、海難事故の守り神として地元漁民たちから崇められていた。張り出している海岸を大洗下又は大洗岬と呼び、沖から眺める、その磯と松原の美しさは、地元人々の自慢の景色であった。

大洗磯前神社(大洗さま)

大洗神社

大洗神社

御本殿

一の鳥居

一の鳥居

一の鳥居正面

磯節

大洗神社

大洗神社

大洗ホテル街

大洗ホテル街

帆船

帆船

祝町通り

祝町通り

漁

磯

松原

松原

海門橋

海門橋

大洗水族館

常陽明治記念館

二の鳥居

時は明治40年、相撲界に剛力無双で名横綱といわれた水戸出身の横綱常陸山がいた。
常陸山は本場所が終わると、郷里水戸の酒門にある先祖の墓に詣でた後は、大洗の金波楼に宿をとり、ゆっくり休養をとる事にしていた。
常陸山が金波楼で投宿の折り、呼ばれた按摩が丑太郎であった。丑太郎は10歳ごろから漁師になったが、不幸にして視力が弱まり、20歳ごろから按摩を生業にしていた。
元漁師丑太郎の力強い揉みっぷりに常陸山は大変気に入り、丑太郎に酒を勧めた。酔った丑太郎が座興に唄いだしたのが、幼時より漁舟の上で父から習った、かの磯ぶしだった。
このとき丑太郎が唄った磯ぶしに、いたく感動した常陸山は、丑太郎に磯ぶしで名を売る事を勧め、関根安中と名を変えさせた。
常陸山は関根安中を地方巡業の供にし、「わしの郷里の安中という者で、郷里の唄の磯ぶしの名人です。」と地方を回って安中と共に磯ぶしを紹介していくうちに、「磯ぶし」が全国津々浦々に広まっていった。
そして、安中が唄っいる磯ぶしが評判となってレコードにされるまでになり、磯ぶしが日本の三大民謡の一つといわれるまでになった。

角聖常陸山

磯節名人関根安中
安中磯節(大洗甚句)クリックで聞けます。

 

大洗名旅館

金波楼本館

金波楼第一別館

金波楼第二別館

魚来庵

魚来庵別荘

 

小林楼玄関

 

 

いけす旅館

 

榎本楼

榎本楼より大洗海岸を望む

 

大洗ホテル正面

大洗海岸より大洗ホテル望む

大洗ホテルからの大洗海岸

大洗ホテル改装後

 

 

大洗海岸

大洗海岸

大洗海岸

白砂青松の大洗海岸

海門橋(初代~三代目)

初代海門橋

二代目海門橋

三代目海門橋

初代海門橋

二代目海門橋

三代目海門橋

初代海門橋

二代目海門橋

三代目海門橋

その昔、祝町から那珂湊へ通行するのは渡し舟によるものだった。 明治28年10月、ここに三浜地区、念願の橋が架けられた。
この橋は海の玄関口であることと、橋の中央部分が開門したことから、海門橋と命名された。
しかし、この初代の海門橋は台風の増水により、なんと明治29年9月の1年足らずで流水してしまった。 二代目の橋は現在の天妃神社前の道路より架橋し、明治31年3月に開通された。かの与謝野晶子がこの地を訪れたとき、その美しさから「那珂川の海に入るなる いやはての 海門橋の 白き夕ぐれ」と歌を詠んだ。 この木橋は大正15年9月の落橋まで、30年の長きに亘り那珂湊と祝町の懸け橋となった。
三代目の橋は昭和5年11月に竣工し、コンクリート製アーチ型の橋は中央に水浜電車が行き来できる、威風堂々としたものだった。
しかし、昭和13年6月の那珂川の大洪水により、あっけなく流失してしまった。通説では設計時の地質調査のミスにより基礎に重大な欠陥があった、といわれている。
尚、この三代目海門橋の建設工事を題材にして小山いと子が小説「海門橋」で直木賞を受賞している。

祝町(水戸光圀公ゆかりの地)

祝町通り

祝町の櫻

祝町の櫻

 

 

祝町は大洗町の北に位置しているが、歴史をたどると、沖の洲村という貧しい漁村であった。延宝2年(1674年)天下の副将軍水戸光圀公(水戸黄門)が、願入寺を久慈郡久米村から沖の洲村へ曳寺させた。元禄2年(1689年)に沖の洲村を巌船町と改称した。巌町と読んでるうち、祝町と転訛していった。
水戸光圀は続いて、元禄3年(1690年)漁民の守り神として、天妃神社を建立した。
水戸光圀はさらに、元禄8年(1695年)、水戸城から丑寅の方角(鬼門)にある祝町に、人の気を盛んにするために祝町に遊郭を設置することを決めた。これにより水戸藩内随一の歓楽街へ変貌していった。
水戸光圀は、太田の西山の山荘に隠居していたが、この祝町が特にお気に入りで「隠居の郭」と愛称して、自ら「洗濯屋」と号して、風俗治安に陣頭指揮とっていた。

(水戸光圀が剣の達人和田平助正勝を供につれて、祝町願入寺を訪れたとき、恐ろしい九穴の大アワビと川底の百尋ワカメに襲われたが、これらの怪物達を、もののみごとに退治した。という逸話がありますから、テレビでおなじみの水戸黄門の全国行脚のお話も、もしかしたらこの地が発祥なのかもしれません。)

街並み

磯浜町全景1

磯浜町全景2

御殿山より祝町全景を望む

鰯の大漁

鮭の地引網漁
奥に見える海門橋

鰹船

鰹の大漁

鰹の大漁

幻の磯浜港・磯浜海水浴場

明治43年11月に磯浜港の起工式が行われた。茨城県で初めての県営工事であり、当時、かなり思い切ったものであった。
工法は東防波堤と西防波堤とからなり、陸から見て八の字型に口を閉じ、中は埠頭用地、繋船岸を建設する計画であった。
しかし、着々と進んでいた築港工事であったが、竣工前の大正4年、予期せぬ一大事となった。東防波堤と西防波堤は完成していたが、波浪とともに砂礫を吸い上げ、その漂砂によって、防波堤が埋没していったのである。
あたかも、東西防波堤を護岸工事とした埋立地の状態となり、その対策を打破するため、各種の対策を施したが、埋没につぐ埋没で、ついに、竣工を目の前にして、工事を放棄せざるを得なくなり、磯浜港は埋没港となり大失敗に終わってしまった。
のちに大洗港が完成するまで、中型船は以上の船は涸沼川をのぼった平戸の船泊りに、小型船は砂浜へ引き揚げるという原始的な操業が続けられることになった。
この小型船の揚げ下ろしは、極寒の冬の朝、さぶざぶと身も凍る海の中に入って引き揚げるので、それは想像を絶する辛い仕事であった。

磯浜築港

磯浜築港

磯浜海岸築港・海水浴場

大洗海岸海水浴場

磯浜海水浴場

磯浜海岸

 

大洗水族館

 

大洗ゴルフ場

松林が若いですね。

 

 

水浜電車

海岸に水浜電車が見えます。

水戸城下の水浜電車

海門橋上に水浜電車が見えます。

常陸三浜

常陸三浜地図

 

 

磯浜町地図

明治31年編成地図
大貫運河で磯浜町は出島だった!

水浜電車の通り道がわかります。

 

水戸城 光圀公 斉昭公

水戸城

大手橋より弘道館を望む

光圀公

説明文

斉昭公

説明文

水戸街並

水戸広小路通り
中央に見えるのは常磐銀行本店 (現常陽銀行)

水戸水府橋
左下に見える木は現在の大銀杏。

南町商店街

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